STORY
©Satoshi Asakawa
路地裏での創造
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東京大学と東京藝術大学との間に位置し、池之端の生活を支え続けてきた赤札堂社員寮「花園寮」。
50年の時を経て、2020年2月に次世代の創造的なプロジェクトやチームを支援する地域創生コミュニティへと生まれ変わりました。
研究機関を飛び出し、科学・技術を社会へ実装するスタートアップへのオフィススペース提供。地域内外の皆さまへ向けたワークショップの開催。そして最上階にあたる5Fでは社会に新たな問いを届けるアーティスト・キュレーターによるアートプロジェクトを実施します。
過去を遡ると池之端では路地が文化を育んでいたことがわかります。これに習い、花園寮の敷地内に新しい路地を作りました。
かつての路地の住民のように入居者同士が親密なコミュニケーションを築け、次のビジネスにつながるような施設へ。
再び花園寮が地域と深く関わりながら、新しい文化を作っていくことを願い、「花園アレイ」と名付けました。
花園寮を磨き直すことで新しい地域の一面が表われ、地域の方々と入居者が集い・出会い・憩える場所に。
地域住民に開かれたスペースであると同時に、アート・テクノロジー・ビジネスの拠点として、新しい価値を創造して参ります。
IMPACT EXPLORATION
ソーシャルグッドネスの必要性が世界中で叫ばれています。大企業からスタートアップまで、社会インパクトを期待した事業を展開する中、我々が地域レベルではじめられることは何であるか ー未來を見つめる起業家やアーティストを支えることも即ちソーシャルインパクトになると信じ花園アレイは生まれました。社会へのポジティブインパクトを探索する。それが花園アレイのスタンスです。
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ART, TECHNOLOGY & BUSINESS
多文化コミュニケーションが実現され、無数の「正しさ」が生まれて久しくなります。何が正しいのか分からなくなった今、合理的答えに加えて真善美に基づく考え方が重要視されています。真実を追求する科学、善を問う哲学、美を追求する芸術が織り交わるルネサンスの時代が再びやってきているのではないでしょうか。これらをわれわれは以下のように考えています。
ART: 社会への問いを立てる
TECHNOLOGY: 社会課題を解決する
BUSINESS: 課題解決を社会に実装する
花園アレイでは、こうした現代に求められる人財が集える場を目指します。
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テクノロジーもアートも、最終的には社会へ還元されてはじめて意味を持ちます。時に孤独の苦悩を研究・開発・制作で感じ、周囲にいるユーザや鑑賞者を忘れてしまいがちです。だからこそ、社会・地域との結びつきを意識的に行っていくことが大事なのではないでしょうか。
空間提供者と賃借人という関係に留まらず、入居者と積極的に地域・社会を巻き込むプロジェクトを実践してゆく場を作り上げてまいります。
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SOCIAL EXPERIMENT LAB
HISTORY
古き路地に新たな路地
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池之端の歴史
かつてこの地域は根津神社をはじめとする寺社仏閣と武家屋敷が多く存在し、そこに出入りする職人たちなど人が集まる場所でした。
この近くには巣鴨から不忍池を通る藍染川が流れており、赤札堂創業とほぼ同時期にあたる1921年(大正10年)に暗渠化の工事が始まりました。元々この川の上流に紺屋など藍染を業とする者が多く、水源が染井であるため、また、二つの川が合流することから逢初川と呼ばれるようになったそうです。
創建時より寛永寺は藍染川に流れる豊かな水量を活かして花畑を育てていました。これを人々は愛し、江戸時代に入った後この土地を「上野御花畑」と称したようです。これを由来に、1872年(明治5年)上野花園町が起立。軍医で文豪でもあった森鴎外が「舞姫」を執筆するなど多くの人々に愛され続けました。
1967年(昭和42年)、住居表示に関する法律に基づいて池之端3丁目へと改称され現代に至ります。
路地裏で育った文化
花園アレイが位置する池之端には旧来多くの路地があり、非常に人間関係の濃い、他人を意識せざるを得ないコミュニティを作っていました。この地域は商業が発達した土地なので、横丁に入ったところでも長屋式に連結した町家がみられます。これは通りからみると店が立ち並び裏側に各戸共通の路地があり、この縦横無尽にのびた路地が地域の文化形成を後押ししていたようです。
©Satoshi Asakawa
花園寮から花園アレイへ
1967年(昭和42年)1月1日に上野花園町が池之端3丁目に改称されたその3年後の1970年、赤札堂社員寮として花園寮が建てられました。地域の生活を支える赤札堂の社員と共に歩み続けて50年間、2020年、新たなアレイ(路地)を、そして文化を育てるべく花園アレイとなりました。